先日、尼崎の実家に帰る用事がありました。折角なので子どものころに慣れ親しんだ街がどうなっているのか散策してきました。
本来ならJRで移動するのですが、折角なので開通したての阪神なんば線を利用しました。南海のなんば駅から向かう途中、「地下鉄、近鉄電車」に加え「阪神電車」への案内表示が新鮮でした。
乗ってみれば西九条の手前までは地下なので味気ないといえばそれまでなのですが・・・土曜日だったのですが込み具合も大したことなく少し拍子抜けした感じです。
で、これが私のこころのふるさと杭瀬。ちなみになんば線で大物駅まで出て梅田方面に乗り換えた1駅目です。
この地域には小学校1年生に引っ越してきました。それまでは大阪市鶴見区。両親が喫茶店をしており、当時から活気のあった杭瀬の商店街へ進出してきたわけです。
ここが昔、銀座商店街と称されていたところです。杭瀬にはこうした日用品、飲食店、などが並ぶ商店街と魚屋、八百屋と生鮮関係が多い市場と呼ばれる商店街があります。私の両親の店があったのはちょうど写真右端の出窓のある建物です。当時は2階建てだったのですが、取り壊されて3階建てになっていました。パン屋さんになっています。パン屋といえば当時は学校給食にもパンを出していたパン屋さんとその工場がその隣にありました。今はここも取り壊されてマンションになっています。私が小学校のころからあったお店は覚えているもので2点。写真左はしのカバン・雑貨屋さんと奥の方にある英国館という喫茶店です。
ここの商店街は閉まっている店がほとんどありません。とても活気があります。
で、これが通っていた小学校の「3の門」と呼ばれていた校門です。となりの常光寺小学校と合併した際にきれいに建て替えられました。校庭にあった私たちの卒業制作はどうなったのだろう・・・と思いつつ。
当時「どんぐり山」と称して遊んでいた遊具もありました。「校長池」はまだあるのでしょうか。
そしてこれが「2の門」・・・と門ばっかり紹介してもあれなので、今は両方とも閉まってしまいました2つの駄菓子屋さんを紹介します。これは「まみや」の跡地。トラックが止まっているところ周辺の地面の色がかわっている区域です。子どものころはもっと大きな敷地だと思っていましたが・・・
こっちはもう1つの駄菓子屋さん、「そごう」です。もう営業されていません。当時、ここのおっちゃんによく怒られた記憶があります。20円の水ようかんの味が忘れられません。
そして「1の門」をみて、立ち去ろうとしましたらもう1つ門ができていました。これは「4の門」と呼ばれているのでしょうか・・・知っている人がいたら教えてください。
さて、さきほど紹介した商店街に対して市場と呼ばれていたもう一つの商店街です。ここはある場所を境に北側、南側で活気の差、開店率の差が如実にあらわれています。しかも駅に近いほうが衰退しています。わかりにくいので地図を描いてみました。杭瀬には杭瀬団地という大きな団地があります。駅と団地の動線を推測したのですが、ポイントは国道二号線の横断歩道と歩道橋です。私もそうでしたが、この交差点で歩道橋を使うことはほとんどありません。そのため、市場を通って団地に帰ろうとする人々は赤線のような動線になっています。その差で北側(1枚目)、南側(2枚目)で大きな差が出ています。
こちらが1枚目です。非常に活気があります。客層はお年寄りが多くクルマ(自動車ではありません)を引きながらですのでここまで徒歩で来られた人でしょう。多くの割合で杭瀬団地とその周辺の方々と推測します。
余談ですが、こちら側にある「カキウチ」というお好み焼き屋さんは小学生のころから通っていました。いまでも元気に営業しています。お好み焼きと焼きそば1つずつ買ってしまいました。それでも500円という驚きの安さです。
こちらが2枚目。駅に近いほうです。ものすごい差です。2号線の交差点を両方横断歩道にすればある程度人通りは稼げると思いますが、駅からは近くても杭瀬団地からは遠い方の市場となってしまうため苦しいことにはかわりません。ちなみに私が子どものころはここまで差はありませんでしたが子どもながらに雰囲気の差は感じていました。
他にも色々となつかしい写真を撮ったのですが、ここで公開するようなものではありませんので省略します。1時間ほどノスタルジックな世界にはまってしまいました。
追記:どんぐり山でコメントをいただきましたので、当日撮ってきました写真を掲載します。
入り口付近にプレートが貼られていますが何やら最近改修工事を行ったようです。もしかしたらコメントに頂いていた穴もふさがれているのかもしれません・・・
しかし、子どもの遊具にそんなプレート貼らなくてもいいような気がするのですが・・・